郁子.Armandiのシカゴ便り

Vol.X(12月30日)


★ 西川浩平 ―横笛演奏家― へのインタビュー
インタビュアー:アルマンディ郁子

2000/7/15
アルソ出版「The Flute」48号より


西洋から来た楽器であるフルートから、日本古来の笛に惹かれ邦楽の世界に入った西川浩平さんの最近の活動は、日本の音楽界の中でもひときわユニークなものと言えるでしょう。
日本音楽集団の一員としての国内、外での活躍や、ソリストとしても今年の3月に演奏された東京フィルとの篠笛コンチェルトの大成功などは記憶に新しいことです。
一度はフルート界から忽然と姿を消したかと思われた西川さん、最近は「西川アンサンブル」という名前で中国やカナダなど海外の演奏家と作曲家を率いて篠笛・能管・フルートとこだわることのない演奏活動を繰り広げておられます。洋楽から邦楽、そしてまた新しい独自の音楽活動を展開されている西川さんにその多岐に渡る活動の内容・動機など、旅の途中のシカゴでお話を聞かせて頂きました。
(7月15日取材)

―昔西川さんが大阪フィルハーモニー時代に半分はウエスタンフルート、後の半分は日本の笛で演奏されたコンサートは、一部のフルーティストの間では伝説のように伝わっていますね。

西川 - いやあ、その時の話をされると照れます。もう20年以上前の話ですよね。
何もフルートと日本の笛を一緒に吹く必要もないと今は思うのですが、若気の至りというか…。

―でも同じ笛を吹きながら洋楽と邦楽の壁を軽々と越えることの出来る人は少ないですよね・・。
今回はどのような経過で邦楽の世界に入られ、また現在どのような演奏活動をされているのかお聞きしたいと思います。
ではまず、音楽との出会いを教えて下さい。

西川 - 中学のブラスバンドでまずサキソフォーンを始めました。
その時の担当の先生がなかなかユニークで、音階も教えないでただ「得賞歌(ユダス・マカベウス)」の各パートを覚えさせ入学したての一年生に合奏させるんです。
その合奏した時、何か身体にビビっとくるものがあってそれで音楽にはまったんですね。
それから何となく2年生でフルートを始め、しばらくして林りり子先生に紹介してもらい本格的に勉強することになったのです。

―西川さんも林りり子さんの生徒なんですか。

西川 - そうなんです。最初に紹介してもらった時上手だとは言われませんでしたが「君は面白い」と言われ生徒にしてもらうことが出来たんです。僕は性格的にやんちゃだったから彼女が亡くなるまで、それは僕が20歳位なんですが、可愛がってもらいました。

―林先生のレッスンはどんなものだったのですか?

西川 - とにかくいろいろな機会で吹かされて、競争の中でもまれましたね。
「おさらい会」と呼ばれる発表会では桐朋高校・大学・またオーケストラに入ったプロの人たちが混じってそれぞれソロを吹いていたし、その後僕は桐朋高校に入るのですが、そこでは「勉強会」という名前であちこちの生徒が武者修行のように吹きに来ていました。
「フルーティストは吹けてこそ価値が有るんだから吹かなきゃダメよ」というのが彼女の口癖でした。
峰岸壮一さんや小出信也さんなどのそうそうたるメンバーがソロやアンサンブルをするのを間近で聞いたり、また伴奏は林光さんでしたから今思うと贅沢なものでした。

―その後オーケストラの仕事をされるのですよね。

西川 - ええ。丁度高校を卒業する頃日本フィルが新日本フィルと別れる時期と重なってフルーティストが不足していて、時々新日本フィルでエキストラとして演奏させてもらいました。
その後24歳の時大阪フィルハーモニーに正式に入団することになったのです。

―その頃すでに邦楽とは関係をお持ちだったのですか?

西川 - はい。高校の時から望月太八先生について篠笛のレッスンを受け始め、東京を去る頃には篠笛で日本音楽集団のエキストラもしていました。
日本音楽集団は日本の伝統楽器で現代音楽を、しかも五線譜で演奏する集団でしたから僕のような人間に向いていたんです。それでせっかく関西に就職したんだからと、京都の藤舎名生(当時藤舎推峰)先生のところに時々見学させてもらいに行きました。
フルートって言うとちょっと甘いような、可憐なイメージがありますよね。でもそういう西洋から来た笛とは違う、籐舎先生の心に訴えかけるような、直接的な篠笛の吹き方に出会いとても憧れました。
大フィルでも海外公演には行かせて頂いたのですが、丁度その頃日本音楽集団でも海外公演があり、無理を言って参加させてもらったんです。その時「自分の言葉で自分の音楽を語る」喜びを知り、それが僕を邦楽へと導く直接のきっかけになったように思います。
―それから大フィルを退団されて本格的に邦楽の笛奏者としての道を歩まれるようになるんですね。

西川 - 日本音楽集団は現代邦楽の集団なので、古典を学ぶ必要性を感じていました。そのルーツとなる古典をまるで知らないで五線譜を吹いているだけでしたから・・。
大フィルをやめたのは27歳の時ですが、今古典の勉強をしないと一生悔いが残ると思いました。でもやめてから経済的に楽になるまで相当な時間がかかりましたね。
日本音楽集団では固定給はありませんし僕自身封建的な邦楽の世界で勉強しなければならないことが山ほどあって、最初は大変でした。
この世界では鞄持ちや内弟子制度が今でもあり、師匠について仕事場を回り基本を勉強する時代をほとんどの人が経験するし、また世襲制度が根強く残っている世界なので小さい頃から親の生活を見て細かな習慣を身につけていくものなのです。
でも僕の場合はいきなり知っているふりをして日本舞踊などの古典の仕事を始めなければいけなかったので、相当いろいろな失敗を経験しましたね。
武者修行に笛吹きの少ない地域を探して徐々に仕事を増やしていったので、この世界に入って20年経った今でも仕事場は日本全国に広がっています。


―日本舞踊の他にはどんなお仕事があるのですか?

西川 - 古典を勉強し出してある程度慣れた頃、歌舞伎の世界で3年ほど吹く機会に恵まれました。
歌舞伎は一ヶ月のうち4日間リハーサル、25日間本番という周期を一年中繰り返すので、3年間はほとんど休みなく働きましたよ。
踊りのルーツでもあるので大変勉強になりましたね。
東京では歌舞伎座や国立劇場、新橋演舞場、また地方公演にも多く出かけました。
なにしろ長い公演なので大道具さんなどはまず移動すると洗濯機を据えつけて生活面を確保する作業から始めるんです。そのおかげで随分旅慣れました。

―歌舞伎の場合音楽家も男だけなんですか?

西川 - そうです。舞台には男しか上がれないんです。
裏方さんには女性の方もいらっしゃいますが、未だに男社会ですね。

―益々女性ばかりのクラシック界とは異なりますね。
そういう時代を経て、どのように今活動されている「西川アンサンブル」のような音楽と結びついていくのですか?

西川 - 歌舞伎でしばらく生活していた頃「自分なりの音を一生に一度は作ってみたい」という欲求にかられました。その頃丁度40歳位でそろそろ歯も悪くなるし、今始めるべきだと思ったんですね。
作曲家と、演奏者としての僕との共同作業を通してアンサンブルで自分の音を作っていくという事をやりたかったんです。
私生活でも丁度両親が相次いで亡くなったり、ピアニスト(奈良英子さん)と結婚したりということもきっかけとなりました。

―現在カナダでよく公演やワークショップをされていますが、海外を中心に演奏されるのはなぜなのですか?

西川 - 日本は「分野」にこだわった聴衆が多いと思うんです。
クラシックはクラシック、邦楽は邦楽、またもっと細かくオーケストラはオーケストラ、ピアノの好きな人はピアノのコンサートだけに行く、とハッキリと分かれていてそれ以外の音楽は聴いたり見たりしないと言うような…。
それを例えば、クラシックと能が混じったようなものを作っていくのは今の日本では難しいと思ったのです。
僕はたまたま洋楽も邦楽も知っているから、やりたいものがどうしてもミックスされた音楽になるんです。でも世の中って言うのは確実に混じってきていますよね。
もう他の影響を受けないで生きていることは不可能で、世界全体が大きなうねりをもって混じってきていると思うのです。
だからそのうち日本でも受け入れられるようになるとは考えていますが、とりあえずそういうミックスされた文化を受け入れるのは新しい移民の国、カナダが一番だと思いました。
知り合いの中国人の作曲家が日本からトロントに引っ越したことをきっかけにカナダに通いだしたのですが、最初トロントでレコーディングした時からそう感じました。通い初めてもう6年、演奏会を始めてから4年目になりますが、カナダの聴衆は古典も新しい作品も同じように聞いてくれ、それなりに興味を持ってくれています。

―日本を出て、海外で演奏することで何か変わったことはありましたか?

西川 - 作曲家がフルートを望めばフルートを、和楽器を望めば和楽器でと今はとても柔軟に考えられるようになりました。
「こうせねばならない」というような強迫観念に押さえつけられていた時代もありましたが、ここ何年かは自分なりの喜びの為に吹けるようになりましたね。
それも柔軟な聴衆がいてくれたからだと思います。
尺八は今や海外で非常に人気が高く、楽器としても認められてきましたが、日本の篠笛や能管も唯の楽器として認められるようになればいいなあと思うんです。
ギターを弾く時、誰もスペインのことを考えたりしませんよね。ギターはギターという楽器として独自の個性を発揮できるまで人々に浸透している。
篠笛や能管を使いながら日本を意識しない作曲家の作品も演奏しているのですが、そのように「日本を意識すること」なく聞いてもらえるようになりたいですね。

―3月に東京フィルハーモニーとされた篠笛のコンチェルトの演奏は大変素晴らしかったとお聞きしています。海外の作曲家による作品だったのですよね。

西川 - それはエクアドル出身でロンドンに住むルズリアーガさんの作品だったのですが、おそらく海外の作曲家が篠笛のために作曲して演奏されたコンチェルトはこれが初めてだったと思います。
固定概念を持つ日本の作曲家にはないチャレンジがあり、面白い経験でした。

―そのうち「篠笛ならこれ」というような素晴らしいコンチェルトが出来るといいですね。
さて、もう少し今されている活動を詳しく教えて下さい。

西川 - クラシックの世界は日に日に器楽的になって、今や技術の粋を極めたような超絶技巧を要求されますよね。
若い世代の人は確実に我々の頃より技術面では数段上です。そのせいか、とっても上手いのに冷たい演奏をする人が多いと思うのです。
僕はそういう傾向とは全く反対のものを考えているんです。邦楽の世界は実は文学と凄く深い結びつきがあるんですが、新しい形で文学と結びついた音楽をやりたいと思っていろいろ試みています。
去年横浜で芥川龍之介の「杜子春」を民芸の俳優さんに語りをお願いしてフルート、篠笛、能管とピアノの伴奏でやったのですが、なかなか面白いものに仕上がりました。
2001年の2月にはロスアンジェルスでその英語版をやる話が具体化しています。
その前にはカナダで平家物語もやりました。英語による新作と日本の琵琶による古典の、それこそミックスの典型だと思うのですが、アメリカ人の作曲家に頼んだ曲をフルートとピアノがバックで演奏する中に英語によるナレーションを入れた後「青葉の笛」の場面を琵琶で演奏してもらうんです。
まあ、音楽劇といったらいいんでしょうか、そのようなことをこれからもやってみたいと思っています。

―面白い活動ですね。「杜子春」のビデオを見せて頂きましたが、俳優さんの語りに伴奏がピッタリとくっついてくる感じで、30分ほどかかる物語を一気に見せてくれますね。
でもこれが役者さんサイドからではなく音楽家からのアプローチで生まれたというのがとても面白いと思います。
音楽家は世間を知らないで音楽家だけの世界で生きる傾向がありますよね。それが西川さんのおっしゃる「冷たい演奏」に繋がるのかもしれませんが、そういう傾向があるからこそ、文学と結びついた音楽がとても新鮮に思えます。

西川 - 題材選びから実際演奏するまで相当な苦しみがあって生まれた作品ですからそう言ってもらえると嬉しいです。
音楽劇的な事と平行して、自分の活動としては現在2枚のCDを出しているので、60歳までに10枚出して一つの区切りとしたいと思っています。
「西川アンサンブル」は固定的なメンバーではなく、何かの縁があって知り合った作曲家も含めた音楽家で作っているのですが、僕の音楽や音楽観に賛同してくれるそういう人たちとよく相談し、一緒に演奏する中で「自分の音」を見つけていきたいと考えています。
基本となる古典の仕事を続けながら自分の好きな音楽を作っていく、という作業なのであせらずゆっくりとやっていきたいと思っているんです。

―お話から西川さんの暖かい音楽観が伝わってきます。これからも日本のフルート界に新鮮な風を吹かせて下さい。お忙しいところ本当にありがとうございました。


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